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子供の頃

Posted on 2013年6月26日

幼稚園、小学校の時代、これはそれぞれ自分では選択がむずかしい、あるいはできない、が、その人の一生の基本的な歩き方がきまるんだなぁと思う。ニューヨークで生活している孫が3週間ほど日本の小学校に行くことになった。それを受け入れてくれるシステムが東京にはあるのにびっくり。区役所にも今の時期、つぎつぎとそんな感じの親、保護者が来て手続き、申し込みに来ている。どんどん流れている。小学校に行ったら、今年は12名。心配するなと副校長の談。下の子はあまり日本語ができないと思うので、心配だったが、今日はじめて登校して、先生もクラスの子供たちも大歓迎し、自然になじんでいるようで、大安心。時代はかわったとおもう。

私が小さいとき、幼稚園、小学校とカトリックの学校だった。それは今かんがえてみて、亡くなった母が、私が粗暴でおちつかず、暴れん坊だった(らしい)ので、心をいためて、カトリックの環境にほうりこんだというのが真相だろうと今は思っている。60年近く前の話になるわけだ。

先生の半分はイタリア人で片言日本語、イタリアから来たシスターの先生たちは、自分の部屋と教室との間の往復だけをしていたような人生。いろんな子が居た。北朝鮮へ帰る最後の船の子もいた。彼は2年生か何かの時に喜び勇んで転校した、はず。米国人とのハーフも居た、中国、韓国の政府関係の特別な駐在の子供たちも居た。今考えると、それぞれの家庭もしくは育った環境は千差万別、かつ、あまり人に言えないような特別な事情もあったんだろうなぁ、と推理できる子もいた。学校ってそんなもんだと思ってた。英語の授業もあった。クリスマスには毎年英語のクリスマスソングを覚え、歌い、ページェントに出演した。ほとんどすべては日本語だったが、英語は自然に覚え、必須の道具だと結論した。イタリー人も、中国人も、韓国人も英語と身振り手振りで話をするしかない、というところからスタートするわけだから。

高学年の時の担任の先生は、しきりに、いわゆる進学校に行って、東大をめざせ、といった。何度も家にもきた。しかし両親は首をたてに振らなかった。そのコースをとっていたら、きっと官僚になって、国の仕事をやっていただろうとおもう。けれども、多少そんな面もある仕事を今もしていることになる。

人間の基本的な能力の違いは子供の頃は敏感に、すっとわかる。特に、いわゆるアフリカンアメリカンの父親を持つ子供。筋肉の造りが違う!これを毎年運動会のときにみせつけられ、すごい!とみなあこがれた。半周近く遅れてスタートしてバトンを受けても、みるみる差を縮める。足ってあんなに速く回転するんだ!ゴールで追いつきはしなくとも競走は大接戦になる。我々のヒーローだ。かとおもえば、不幸なことに同じような境遇の子が、18で免許をとって自動車で走り回り、あげく、ダンプの腹につっこんで亡くなったのがいた。

自分の能力を高めて、活かせ、人のためにつくせ、世界のために努力しろ、と習った。それが私の人生の基本になることになる。

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