早いものでもう1年近く前のことになってしまった。いろいろなことが記憶のかなたに飛んでしまうので、ひとつのエピソードを書いておく。まだ他にもいろいろあるので、これを機会にどんな話があったか聞いてもらえるとうれしい。
2008年7月にアルゼンチンとブラジルへ行った。フランクフルト経由で。いろいろな旅の専門家に聞くとこの経由は大正解とのことだが。ともかく、ブラジルへいった。以前から交流のあった2つの大学から様子をみてもらってアドバイスがほしい、ということがあったからである。事前に、日本に、いや日本政府に助けてほしいことがあるが、どうしたらいいか相談したい、といわれていたので、いくつかの方法を示しておいた。また、テーマのまとめ方の話をした。そしてJICAという機関の話もした。
そうしたら、到着の前に、担当の副学長はJICAに電話をかけ、所長と話をしていた。そこで到着後、電話をしてアポをとり、私も行くことになった。どうやってわれわれの計画を説明して、支援してもらうか、ということが課題となった。それで、説明を聞いた。
先方の課題は次のようなことだった。サンパウロにあるこの大学が支援している大学がブラジル全土に10近くある。また、すでに衛星接続するディッシュとその関連装置は大学内に設置してある。これを活かして、他の支援校にも衛星通信の設備を設置して衛星を使った遠隔教育の仕組みをつくりたい。
それで、大学内の関連設備も見学した。立派なスタジオがあり、またブラジル内では最高水準というメディア学科がある。コンピュータセンタもいっぱしのものがあり、学内のインターネットアクセス環境、情報教育環境はしっかりしている。教室の設備がちゃんとしているといったことだけでなく、たとえば、訪問者があった場合に、一時的にアクセス権を、しかもセキュアな方法を用意して与える手段などもしっかりしている。衛星の利用もすでに独自のサービスのために割り当てを受けることが可能な状態にきているという。
プロジェクトの形にまとめる必要があるとアドバイスした。何年でどこまでやって、いくらかかって、どのように運営して、それにもっとも重要なこととして、何のためにどんな効果を期待しているか、どうして支援が必要か、といったことを書いたらと。多少説明はした。「よしわかった、時間がほしい。」それで彼は夕方のスケジュールをキャンセルして翌朝まで時間がほしいといった。翌朝になった。きれいな説明資料ができていた。ディテールもかなりしっかりしていた。ポータブルプロジェクタももってきた。私は、スライドの投影は無理だろうから、それを人数分コピーして持参したらいいとおもうといってあった。JICAにいった。
最初に副学長は、JICAの所長に挨拶をした。そして、最後にはスクールグッズのプレゼントをした。ぜひ支援してほしいと。説明担当者は壁に用意したプロジェクタで投影しながらプロジェクトの概要と依頼内容の説明をした。JICA所長は私にいった。「そうなんです。もうブラジルはいわゆる開発援助の対象でないんですね。独自のグッズのプレゼントまでしてくれる。」
そう、従来の考えのDevelopment Assistanceが「途上国援助」を意味し、基本インフラの整備程度のことを想定しているのであれば、事情は異なっている。ブラジルにとってDevelopment Assistanceつまり開発の援助は先進国に肩をならべ、それを追い越そうとすることで開発を進めている、それを援助してほしいということだ。
ピラシカバからサンパウロへの道、大学がまわしてくれた自動車で行った。一面のサトウキビ畑、そしてアルコール精製工場は戦前からある。乗った車は、高速のインターにくるとその手前で何度もエンジンを止めた。スイッチを手でいじり、再始動。何をしているか聞いた。「燃料効率が違うので、ガスとエタノールを切り替えてる、もちろんガソリンでもこの車は動くけれどね。」
日本が学ぶべきことは山積している。