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保護された異端児の話:スティーブジョブズ氏を悼んで

Posted on 2011年10月11日

私からすればまだまだ若い、ジョブズ氏が死去した。彼の功績は大であり、とても残念である。と同時に、日本でそのような人物が出る余地は今までなかったのかと思う。これに焦点をあてたい。

日本でも自分の夢を実現させ、それを企業化し、大企業へと発展させようという若者は、少なくない、以前もそして今も。同時に、そういう人たちが育つ、あるいは自由に努力を積み重ねられるか、ということを考えると日米の彼我の差がくっきりとでてくる。一人で努力する、あるいは組織の中で努力するのどちらもである。まず、どちらも自分で独立して、自力でなんとかしようと文字通り這い上がるための「環境」としては、そう大きな違いは無いように感じる。特に最近では。一方、「環境」に違いはあるのだ、という説をとるとすると、それも成り立つ。エンジェル、あるいは篤志家が個人の夢をきいて、よしわかった100万ドルだしてあげよう、などということは日本ではほとんど考えられないというべきだ。一方米国ではたまにある。

企業の中に居る人間が、夢を持ったとする。多くの場合、それは、その企業が戦略あるいは方針としてとっていることとは違うわけだから、異端児となる。異端児は摘み取られるか踏みつけられる、日本では特に。そしてデコボコがあるおもしろい人物は次第に組織人間となって丸くなっていく。か、あるいは組織を飛び出すという選択しかなくなる。

組織の成長力を維持する方法として、「保護された異端児」という概念がある、ということは、アメリカの企業経営者、複数から聞いた。また、クリエイティブコモンズを提唱したレシグ教授の講演記録を整理していたら、その言葉が出てきた。企業の創造力を維持するもっとも金のかからない方法は、クリエイティブな発想をする人たちを育てるためにわざわざお金をかける必要はない。ただ、数人のものになりそうな異端児は、その行動の異端性にまぁ文句をいわないで飼っておくことだ、その方が安くつくし、会社のためになる、と、そんな感じの言い方である。これはビジネススクールで何を教育するかということに関係する。組織の戦略とそれに向かっての統率というときに、Collectivism的に全体の利益を目指す時には個人のゲインはたたくと言う方向に走る。と、異端児はそこに住んでいられない。全体最適を考えるときには、一部の優れた発想をする人がもしその時の戦略の遂行に直接貢献しなくともよい、という原則を日本では教えているか?経営者に伝わっているか?

少なくとも、私が受けた印象では20世紀型の日本の経営者は滅私奉公的な発想で、組織の方針の維持に血道をあげていた。出る杭は打たれる、とかそんな言葉もあった。人と異なる意見を言う人の発言は組織的な意思決定の前には無視されたのではなかったか。私自身、20年前、30年前には組織には住めなかったのを思い出す。どう考えても自分の言っていることは役に立つし、やれるはずだ、といってもうまく伝わらない。それで研究の道に入った。それも内容を認めてくれる米国の人達ともっぱら話をするようになった。「保護された異端児」の話をもっとしよう。

 

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